井原市において郷土出身の偉人である馬越恭平氏を顕彰するために、サッポロビールを使用したまちおこし運動なるものが存在するが、サッポロビールと馬越恭平氏との間にどんな関係有るのかを纏めてみたい。
1892年、三井物産の社員時代に経営困難に陥っていた日本麦酒に役員として派遣される。その後、日本麦酒の経営が多忙となり、1896年1月11日、三井物産を退職し、ビール会社経営に集中する。また、1900年に社長に就任している。
日本麦酒とは、東京に本社のあったヱビスビールを造っていた会社である。当時は、現在のようなプレミアムビールのブランドではなかったが、1900年にはパリ万博で「金賞」を受賞している。
1906年9月に、大阪麦酒(アサヒビールの前身)、日本麦酒(恵比寿ビールを製造していた)、札幌麦酒(サッポロビールの前身)が合併して大日本麦酒が誕生した。日本麦酒の馬越恭平社長(三井物産重役)が中心となり実現したこの「大合同」により、合併時の市場占有率は約7割に近づいた(エビス、サッポロ、アサヒの商標で1935年市場占有率65%)。合併前の厳しい市場競争で三井系の日本麦酒の経営が危機に陥りかけたため、馬越恭平氏は内閣に働きかけ「国内の過当競争排除と輸出の促進、 資本の集中化を図るための」合併勧告を引き出した。
中国で有名な青島ビールも、1914年にドイツより経営権を取得し、1945年に敗戦後、接収されるまで大日本麦酒が経営した。
その後、大日本麦酒の市場占有率は79%にもなるが、その前に、馬越恭平氏は1933年に死去している。
一方、大日本麦酒は戦後の財閥解体のあおりで、朝日麦酒(現アサヒビール)と日本麦酒(現サッポロホールディングス)に分割された。簡単に言えば、大日本麦酒を単純に東西に分割した形になっている。分割後の日本麦酒は、いわば、旧日本麦酒と旧札幌麦酒が合体した形になっており、本社は東京に置かれ、商標名もニッポンビールであった。分割後、サッポロビールのブランド名は使われなかったが、1956年に北海道でサッポロビールの商標が復活し、1964年にサッポロビールに社名が変更され、全面的にサッポロビールの商標が使われるようになった。この時、逆にニッポンビールのブランドは消滅する。
馬越恭平氏は大合併前の日本麦酒の社長である。サッポロビールは分割後の日本麦酒が名称変更したものであり、この日本麦酒は旧日本麦酒の経営の色彩が強い会社である。従って、サッポロビールは馬越恭平氏と深い関係にあるといえる。大日本麦酒に着目した時に、アサヒもその傘下であったことがあるため、アサヒではいけないのか、とよく言われるが、上記の理由がサッポロビールに氏との関係の深さを求める所以である。
(出展)Wikipediaの「大日本麦酒」「馬越恭平」「ヱビスビール」「サッポロビール」の各項
河村益成氏(マイレールメンバー)より
馬越恭平翁は井笠鉄道初代社長でもあります。
サッポロビール、井原鉄道をからめた町おこしが出来ればと考えます。